書跡

大般若波羅蜜多経巻

(だいはんにゃはらみたきょう)

  • 指定情報

    重要美術品

  • 作者

    伝 魚養(なかい)

  • 日本

  • 時代

    奈良時代(8世紀)

  • 形質

    紙本墨書

  • 員数

    1巻

  • 法量

    縦 27.3 cm × 横 1038.5 cm

  • 解説

    奈良時代後期の代表的な大般若経の遺巻。薬師寺に伝来したことから「薬師寺経」と呼ばれ、筆者を当時の能筆であった浅野魚養に宛てたため「魚養経」とも呼ばれる。実際は、宝亀初年(770〜)ころ、東大寺におかれた官立の写経所で十数人の写経生によって書写されたものと思われる。やや大振りで肉太の量感ある書体は、奈良時代後期における写経の特徴をよく備えている。料紙は上質黄色の斐紙(雁皮紙)で極めて保存がよく、褐色斐紙の表紙、白密陀撥形の軸は、ともに当時のものである。

仏説阿弥陀経

(ぶっせつあみだきょう)

  • 指定情報

    重要美術品

  • 日本

  • 時代

    平安時代(11〜12世紀)

  • 形質

    彩箋墨書

  • 員数

    1巻

  • 法量

    縦 27.0 cm × 横 230.6 cm

  • 解説

    平安時代の終わりころ、政情不安とともに、この世は仏法が衰える末法の世であるという末法思想が広がった。平安時代の貴族は、極楽への往生を願って阿弥陀仏を信仰し、それを彫刻や絵画、写経に表した。阿弥陀経は、阿弥陀如来の名号を専ら唱えることで極楽浄土に往生できると説いたものであり、貴族たちによって盛んに書写された。これは斐紙に金界線を引き、欄外に大小の金銀箔を散らした装飾経で、最初の十一行は楷書、後は行書と草書を交える珍しいものである。見返し、軸、表紙は後補。

不退転法輪経

(ふたいてんぼうりんきょう)

  • 指定情報

    重要美術品

  • 日本

  • 時代

    平安時代(12世紀)

  • 形質

    紺紙金字

  • 員数

    1巻

  • 法量

    縦 25.8 cm × 横 300.8 cm

  • 解説

    紺紙に金字で経を写した経巻である。見返しには霊鷲山下で説法する釈迦に、脇侍と菩薩二体が描かれ、浄土の世界が示される。表紙は仏の功徳を象徴する宝相華が金銀泥で表され、書、絵ともに当時の彩色が美しく残っている。また軸、紐も当時のもので、金銅製の軸端には四弁の宝相華文が施される。奥州藤原氏の発願による、いわゆる中尊寺経として重要美術品に指定されているが、本文の書体や見返しの絵の表現の違いから、12世紀に隆盛した紺紙金字一切経の典型作と思われる。

古新一覧手鑑

(こしんいちらんてかがみ)

  • 指定情報

    重要美術品

  • 日本

  • 時代

    奈良時代 〜江戸時代(8〜18世紀)

  • 形質

    紙本・彩箋墨書

  • 員数

    1帖

  • 法量

    縦 39.5 cm × 横 32.0 cm

  • 解説

    手鑑は、手習いの見本として古今の名筆を集めたものである。とくに近世においては筆跡鑑定の道具として重用され、多くの手鑑が作られた。本品は、奈良時代から江戸時代初期までの古筆切と短冊299葉を収めた手鑑である。筆跡鑑定の家として栄えた古筆家初代、了佐をはじめとする古筆家の極札を付す。
    -----
    拾遺和歌集巻 第八断簡
    伝 東常縁
    彩箋墨書 室町時代(15世紀)

    画像の作品は古新一覧手鑑に収められた一葉である。筆者は、室町時代の武将、歌人の東常縁(1401?〜1484)の伝承を持つ。東氏は藤原定家の血を引き、父祖以来の二条派歌学の東堯孝の門弟となる。文明3年(1471)に連歌師の飯尾宗衹に対して『古今和歌集』を講じたことが、のちに古今伝授の創始といわれる。料紙は藍の雲紙である。

織田有楽手紙 光明院御房宛

(おだうらくてがみ こうみょういんごぼうあて)

  • 作者

    織田有楽(おだうらく)

  • 生没年

    1547〜1621

  • 日本

  • 時代

    江戸時代(17世紀)

  • 形質

    紙本墨書

  • 員数

    1幅

  • 法量

    縦 24.1 cm × 横 59.5 cm

  • 解説

    織田有楽長益は織田信長の弟。本能寺の変から徳川政権成立にかけての激しい政変の世を巧みに生き抜き、大坂冬の陣後は京都東山に隠棲。利休七哲の一人に数えられ、名器を所有する数寄者として余生をすごした。手紙の内容は、訪問のお礼と、かねて約束していた中国の天目茶碗を贈る旨をしたためたもの。文中の「こゝもとの山さと」は元和4年以降、建仁寺塔頭正伝院内に営んだ茶室「如庵」といえることから、本作は晩年の筆と思われる。

菅公所詠

(かんこうしょえい)

  • 作者

    慈雲飲光(じうんおんこう)

  • 生没年

    1718〜1804

  • 日本

  • 時代

    江戸時代(18世紀)

  • 形質

    紙本墨書

  • 員数

    1幅

  • 法量

    縦 112.7 cm × 横 28.0 cm

  • 解説

    菅原道真の歌を書く。まどかな「心」に、一気に引きおろされた「神」。その間に小さな仮名を散らし書きする。慈雲飲光は江戸時代の真言宗の高僧。大坂に生まれ、大坂田辺の法楽寺で得度、のち河内葛城山高貴寺の住職となった。87歳で示寂するまで、釈迦在世時と同じ衣食、言語であるのを理想とし、その実践にいそしんだ。宗派を超えて崇敬され、在世においては今釈迦と呼ばれ、歿後は尊者と敬愛された。その書はいずれも、慈雲の高潔な精神を感じさせる。

息耕録開延筵普説

(そっこうろくかいえんふせつ)

  • 作者

    白隠慧鶴(はくいんえかく)

  • 生没年

    1685〜1768

  • 日本

  • 時代

    江戸時代・元文5年(1740)

  • 形質

    紙本墨書

  • 員数

    1冊

  • 法量

    縦 26.5cm × 横 17.8cm

  • 解説

    白隠慧鶴は沼津原の生まれ。33歳で沼津松蔭寺の住職となり、晩年は伊豆三島に龍澤寺を開いた。高い徳を具えながら墨染めの衣で生涯を貫いた。自らの書画で仏道を易しく説き、身分を超えて崇敬された。息耕は中国南宋の禅僧虚堂智愚の別号。開筵は開講、普説は普く学人を集めて説法すること。白隠56歳の春、松蔭寺で『虚堂録(息耕録)』を提唱、衆四百余人を集め、その名を高めた。これは、その折の序文の草稿。自らの生い立ちから、当時の禅宗界の実情、禅宗に対する見解など、白隠一生の姿勢をうかがわせる一大論文である。

禅語「僧問趙州」

(ぜんご「そうじょうしゅうにとう」)

  • 作者

    白隠慧鶴(はくいんえかく)

  • 生没年

    1685〜1768

  • 日本

  • 時代

    江戸時代(18世紀)

  • 形質

    紙本墨書

  • 員数

    1幅

  • 法量

    縦 47.9 cm × 横 61.8 cm

  • 解説

    中国唐時代の禅僧趙州従諗(778〜897)と一僧との、禅の根源についての問答を書く。『趙州録』にある公案。僧「すべてのものは一つの根源的な原理に帰着します。その原理はどこに帰するでしょうか。」師「わしは青州にいたとき、一着の麻衣を作ったが、重さが七斤もあったよ。」万法にも一にも、衣の重さがどうであるかにもとらわれない、禅の修行の境地を説く。