- 日本
- 南北朝~室町時代(14~15世紀)
- 絹本着色
- 1幅
- 縦 103.8 cm x 横 44.6 cm
- 地蔵が蓮台に乗り、雲に乗って近づいてくる姿を描く。左手に宝珠、右手に錫杖、胸に瓔珞を提げ、袈裟をまとう。地蔵菩薩は平安時代中頃から末法思想とともに盛んに信仰された。それは六道に輪廻して苦しむ衆生を救い、地獄に堕ちた者さえも救ってくれる仏だと信じられたからである。地蔵菩薩像の初期は坐像だったが、次第に立像が多く描かれ、独尊としての図像は鎌倉時代以降に急増した。一歩前に足を踏み出す姿に、少しでも早く救い出してほしいという人々の篤い願いが込められている。
- 日本
- 鎌倉~南北朝時代(14世紀)
- 絹本着色
- 1幅
- 縦 93.2 cm x 横 39.0 cm
- 画面中央の仏は求聞持虚空蔵菩薩。記憶力増進の秘法である求聞持法の本尊であり、興福寺にて篤く礼拝された。背景は、御蓋山や春日山など春日社の神域に仏たちを配す。右から釈迦如来(一宮)、薬師如来(二宮)、地蔵菩薩(三宮)、十一面観音(四宮)、文殊菩薩(若宮)。仏が本来の姿で、神は民衆に教えを広げるための仮の姿という考え方によるもので、本地垂迹説という。これは平安時代に、仏教が日本古来の信仰と結びついて生まれたものだが、神仏習合が進んだ中世において、本作は春日大社と興福寺を一体として信仰した思想を示している。
- 白隠慧鶴(はくいんえかく)
- 1685~1768
- 日本
- 江戸時代・明和4年(1767)
- 紙本墨画
- 1幅
- 縦 133.0 cm x 横 56.9 cm
- 白隠慧鶴は沼津原の生まれ。33歳で沼津松蔭寺の住職となり、晩年は伊豆三島に龍澤寺を開いた。高い徳を具えながら墨染めの衣で生涯を貫いた。自らの書画で仏道を易しく説き、身分を超えて崇敬された。白隠の母親は観音を深く信仰した。それは白隠にも大きな影響を与え、多くの観音像を描いて人々を教え導いた。これは示寂前年83歳の作。蓮葉の上に片膝を立てて座す観音。その姿はおおらかで慈愛に満ちる。頭上に高い宝冠、胸に瓔珞、両手に瑠璃香(鉢)を持ち、柳枝を添え、天衣をまとう。背景は墨一色だが、かえって豊饒な色彩を思わせる。それは泥池から清浄な花を咲かせる蓮にたとえて、観音が混沌とした現世に苦悩する人々を救ってくれることを表している。
- 重要美術品
- 岳翁蔵丘(がくおうぞうきゅう)
- ?~1486~1514~?
- 日本
- 室町時代(15~16世紀)
- 紙本墨画淡彩
- 1幅
- 縦 79.4 cm x 横 32.0 cm
- 空に月が浮かび、右手に鋭く高い峰が切り立つ。大河か入り江の景観が広がる中、左手に楼閣が見える。手前に老いた松、橋を渡る五人の人物が描かれる。水墨による山水画は主に禅宗の画僧により修行の境涯の一つとして描かれ、これを得意としたのが岳翁である。岳翁蔵丘は室町時代の画僧。生没は明らかでないが、日本における水墨画草創期の画僧、周文の弟子とされる。本作は60~70歳ころの作。潤いと温かみのある墨調、細やかな筆致は、岳翁の作品の特色をよく表わしている。
- 狩野伊川院栄信(かのういせんいんながのぶ)
- 1775~1828
- 日本
- 江戸時代(19世紀)
- 絹本着色
- 3幅対
- 各/縦 99.8 cm x 40.8 cm
- 狩野栄信は、江戸幕府出入りの奥絵師の一つ、木挽町狩野家の七代目、養川院惟信の子として生まれた。文化5年(1808)に八代目を継ぎ、唐宋画、清画、古大和絵なども修め狩野家随一の妙手といわれた。本作は款記より法印に叙せられ、伊川院と称した文化13年(1816)42歳以降のもの。中幅は歌人藤原定家の姿。満月の空を見上げ、心に浮かぶ一首を口ずさむ。右幅は春の景。男たちが鷹狩の手を休め桜を愛でる。左幅は秋の景。雨にけむる紅葉の山中に、哀愁を帯びた鹿の声がこだまする。定家の和歌の世界を髣髴とさせる、余情あふれる作品である。
- 重要美術品
- 伝 海北友松(かいほうゆうしょう)
- 1533~1615
- 日本
- 桃山時代(17世紀)
- 紙本金地着色
- 6曲1双
- 各/縦 166.5 cm x 横 371.2 cm
- 魚網が干された金地の砂浜。金雲の間から群青の海原が見え、その間を帆船がゆく。青々と繁茂する芦の葉は、右から左へ目を移すと、穂をつけ、枯れ葉となり、粉雪が舞う。ここに季節のうつろいが表わされる。海北友松は近江国浅井家の重臣の子として生まれた。浅井家滅亡の折、海北家も運命を共にしたが、友松は京都・東福寺に預けられていたため難を逃れ、のちに画家として大成した。絵の師は狩野元信、また永徳といわれる。明快かつ理知的な画面構成を特徴とし、それは武士の出らしい気骨さと長い禅林環境のなかで養われたものともいえよう。
- 日本
- 江戸時代(18世紀頃)
- 紙本金地着色
- 6曲1双
- 各/縦 92.7 cm x 横 272.4cm
- 本図は古来、和歌の歌枕でもあった二つの名所を組み合わせたもの。左隻は中央に天橋立が青松と砂洲を延ばし、その左方の対岸に智恩寺、右端には男山八幡社が描かれる。右隻は、左寄りに内海が静かに広がり、和歌天神社ないしは紀州東照宮を中心に、紀三井寺、玉津島神社を配す。右下に和歌山城も見える。両図とも名勝の景観の中に、社寺への参詣者やそこに住む人々の暮らしが描かれる。こうした名所図屏風は、近世に入り社寺参詣と行楽をかねた名所旧跡めぐりが盛んとなったことから数多く生み出された。
- 黒川亀玉(くろかわきぎょく)
- 1732~1756
- 日本
- 江戸時代・宝暦4年(1754)
- 紙本淡彩
- 1幅
- 縦 85.2 cm x 横 41.6 cm
- 黒川亀玉は江戸の生まれ。狩野派に学び、中国清代の画家・沈南蘋の濃密な写実画風を、最も早い時期に江戸に伝えた。天才を謳われていたが、25歳の若さで亡くなった。本作は落款によると、亡くなる2年前の冬至に描いた作品である。芙蓉の枝は大きくたわみ、花びらはちぎれんばかり。カワセミは芙蓉の枝にしっかりとつかまり、寒風に耐えている。写実画風は影をひそめ、枯淡な趣にまとめられている。
- 葛飾北斎(かつしかほくさい)
- 1760~1849
- 日本
- 江戸時代・嘉永元年(1848)
- 紙本着色
- 1幅
- 縦 52.8 cm x 横 56.2 cm
- 僧の衣を着た鬼を描く。さしみを盛った伊万里の皿と酒徳利を前に物思いにふける黒衣の赤鬼。この鬼の鋭くも、どこかすべてを悟ったような表情は、猛虎のごとき勢いで世を駆け抜けた画狂人、百有十歳を画業の完成としていた北斎の人生の終焉を前にした心境を語っているようでもある。北斎の亡くなる前年89歳の作。款記より、酒田(山形県)本間家の一族で北斎の弟子、本間北曜に描き与えられた絵とわかる。なお北曜の日記に本作の制作日の記述があり、その内容とも一致する。山形の池田玄斎の追賛が添えられる。
葛飾北斎は江戸の生まれ。19歳のとき浮世絵師・勝川春章に入門、役者絵や戯作の挿絵を描く。次第に狂歌絵本や読本の挿絵画家として名を高め、『冨嶽三十六景』で浮世絵における風景画の世界に新境地をひらく。また肉筆画の名手としても知られた。
- 曽宮一念(そみやいちねん)
- 1893~1994
- 日本
- 昭和35年(1960)
- カンバス・油彩
- 1面
- 縦 59.5 cm x 横 79.0 cm
- 曽宮一念は東京の生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科に進み藤島武ニの指導を受ける。二科会や独立美術協会、国画会に所属し、大自然の営みを躍動的に描いた。昭和19年に静岡県富士に疎開、翌年富士宮に居を定めた。78歳で視力を失ってからは随筆や書の分野で活躍した。開聞岳は鹿児島県薩摩半島の山。三角形の開聞岳が画面右上に遠く望まれ、夕日が複雑に入り組んだ入江を美しい紫色に染めている。海面の光と入江の影、その明暗の対比は力強く、自然の壮大さを感じさせる。昭和62年、作家より寄贈。
- 井上恒也(いのうえつねや)
- 1895~1979
- 日本
- 昭和46年(1971)
- 絹本墨画
- 1面
- 縦 49.5 cm x 横 59.8 cm
- つややかな毛並みに包まれて眠るニホンカワウソを描く。特別天然記念物に指定されているが、近年、その生存が確認できないという。井上恒也は静岡県富士の生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科で川合玉堂に学ぶ。戦前は日展、戦後は個展を作品発表の場とし、自身の最も愛した動植物を生涯の画題とした。晩年は希少動物の保護活動にも取り組み、昭和46年の個展は、特別天然記念物をモチーフとした作品15点を発表した。本作もその一つ。カワウソの無垢な寝顔に、滅びゆく動物に寄せる恒也の深い哀悼の念がうかがえる。昭和59年、井上雪子氏より寄贈。
- 中島清之(なかじまきよし)
- 1899~1989
- 日本
- 昭和53年(1978)
- 紙本着色
- 2曲1隻
- 縦 170.0 cm x 横 214.0 cm
- 中島清之は京都の生まれ。横浜に移住し、会社勤めの傍ら歴史画家松本楓湖の安雅堂画塾に学び、のち山村耕花に師事。日本美術院同人となり、卓越した描写力と大胆な着想眼を基に、写実性と装飾性が共存する独自の画境を開いた。本作は奈良公園の鹿を描いた屏風。芝生の若芽に陽光が照り返る様子を、日本画の伝統的な画材である金箔で象徴的に表している。一方、鹿や礎石は写実的にとらえられている。抽象と具象を巧みに融合させた清之ならではの手法が見事に発揮された作品。79歳、再興第63回院展出品作品。平成11年、織田美恵子氏より寄贈。