展覧会の詳細

生誕200年記念 清麿展

幕末を駆け抜けた孤高の刀工
平成25年8月31日(土)~平成25年10月6日(日)

源清麿(みなもと きよまろ)は、幕末に活躍した日本刀の名匠です。
清麿の魅力は、澄んだ地鉄(じがね)の柔らかさと刃文(はもん)の躍動感にあります。澄んだ地鉄は良質の鉄を使い、その鉄の性質を十分に活かす熟練した腕を、刃文の躍動感は作刀に生涯をかけた清麿という刀工の心意気を感じさせます。
清麿は文化10年(1813)信州小諸(こもろ)藩の郷士の次男として生まれ、兄の影響で作刀を始めました。婿養子に入り一男をもうけましたが、刀への情熱を捨てきれず、妻子を郷里に残し江戸に出て、作刀修行に邁進しました。そして清麿の刀は多くの人々の求めるところとなったのです。
しかし人気絶頂の中、嘉永7年(1855)清麿は四谷の自宅で自らの命を絶ちました。その原因については多くの憶測が飛び交いましたが、今なお謎のままです。
清麿が18歳で作刀の道に入り42歳で自ら死を選ぶまで、ひたすらに歩み続けた刀の道。その中で生み出された選りすぐりの名刀約50点を一堂に展示します。
※木曜休館

主な出品作品
■脇指 銘 天然子完利 二十七歳造之/一貫斎正行十八造之 文政十三年四月日
■短刀 銘 まつよい/天保十年正行造
■脇指 銘 正行/天保十一子年十月十三日太々土壇拂
■薙刀 銘 於長門國正行製/天保十四年二月日
■太刀 銘 為窪田清音君 山浦環源清麿製/弘化丙午年八月日 [重要美術品]
■刀  銘 源清麿/弘化三年八月日
■大小 銘 源清麿/嘉永元年八月日〈号 一期一腰〉
■刀  銘 源清麿/嘉永二年八月日
■短刀 銘 源清麿/嘉永三年八月日
■太刀 銘 清麿/嘉永三年十二月吉日
■刀  銘 源清麿/嘉永七年正月日(絶作)〈切付銘〉切手山田源蔵/安政三年十月廿三日於千住太々土壇拂

入 館 料 一般・大学生1,000円 小・中・高校生500円
※毎週土曜日は小中学生無料
※15名以上の団体は各2割引
開館時間 10:00~17:00(入館の受付は16:30まで)
休 館 日 木曜休館
主  催 佐野美術館、三島市、三島市教育委員会
後  援 公益財団法人日本美術刀剣保存協会、静岡県教育委員会
協  賛 伊豆箱根鉄道株式会社
協  力 生誕200年記念清麿展実行委員会

展示会構成

第1章 信濃から江戸へ

幕末に名を馳せた日本刀の名匠、山浦環(やまうら たまき)-後の源清麿-は、信州小諸藩赤岩の郷士・山浦昌友の次男として誕生しました。若くして近郷大石村の郷士・長岡家に婿入りし一男をもうけるも、刀への情熱絶ち難く、生涯を賭けて作刀の道へと邁進しました。 
実兄真雄は、信州上田藩のお抱え鍛冶であった河村寿隆に鍛刀の基礎を学んでおり、清麿はこの兄に鍛刀のいろはを学びました。
弱冠二十歳の頃、鋭敏な感性を持つ若き刀工は江戸に上り、生涯にわたり多大な影響を受けることとなった幕臣・窪田清音(くぼた すがね)に出会いました。清音の計らいによって、古名刀に対峙する機会を得、武器講での鍛刀で鍛錬を重ね、清麿は自らが理想とする刀の姿を追い求めたのです。

第2章 萩へ

清麿が萩へ赴いた理由は従来不明とされ、武器講で集めた金を持ち逃げしたなど、まことしやかな噂話が通説として語られてきました。
今回展覧会を準備する過程で、清麿は萩に招かれたという説が有力となりました。萩藩は天保11(1840)年より着手した藩政改革の一環として、他藩より剣槍術師を積極的に招聘(しょうへい)するなど、武術や武器製作技術の向上を図っていました。清音を通じこの改革の中心人物であった萩藩士・村田清風(むらた せいふう)の知遇を得て、清麿の萩行きが実現したと思われます。
この地で清麿は萩の武士達が求める刀を鍛刀しました。萩時代の刀には、備前一文字を彷彿とさせる匂出来(においでき)、華やかな丁子(ちょうじ)の刃文が焼かれています。それまでは相州風の刀を中心に鍛刀していた清麿にとって、それは大きな変化でした。

第3章 源清麿の誕生

清麿がいつ萩を辞したのかは明確ではありませんが、天保15年8月には信州小諸にいたことが太刀の銘から判ります。郷里に立ち寄った後江戸に戻った清麿は、四谷に自らの鍛冶場を構えました。これまで山浦環、秀壽、源正行、などの銘を使ってきましたが、弘化3(1846)年8月、初めて「清麿」の名を茎(なかご)に刻みました。
その後の清麿の活躍は目覚ましく、相州風と備前風を会得し、それらを咀嚼(そしゃく)した独自の刃文を創出、その見事な刀の姿に、当時の人々は鎌倉時代の名工正宗(まさむね)を重ね、清麿は「四谷正宗」の異名をもって称えられました。
嘉永7年(1855)11月14日、四谷の自宅にて清麿自刃。名工の人生は自らの手によって幕を下ろされました。享年42。本展には清麿最晩年の刀が2口出品されています。天才刀工のセンセーショナルな死の理由については様々な憶測が飛び交いましたが、それは今なお謎のまま残されています。