展覧会の詳細

小村雪岱 江戸の残り香

—清水三年坂美術館コレクションより
平成24年10月6日(土)~平成24年11月25日(日)

小村雪岱(1887~1940)は、大正から昭和初期にかけて活躍した日本画家です。

明治20年埼玉県川越に生まれ、東京美術学校(現東京藝術大学)で下村観山に学びました。卒業後は古画模写に従事し伝統絵画を学びつつ、資生堂意匠部に勤め、ロゴマークやパッケージデザインの仕事に関わりました。

雪岱が画才を発揮したのは、装丁や挿絵の世界でした。泉鏡花の著書『日本橋』の装丁を手掛けたところ評判となり、以降、多くの新聞や雑誌、小説を飾り、さらには歌舞伎や新劇の舞台美術、映画の時代考証にもたずさわりました。

とりわけ雪岱の作品が賞賛されたのは女性表現でした。余白をいかした簡潔な構図の中に、細くたおやかな線で女性をとらえました。繊細可憐なうちにほのかな色香をたたえた姿は、江戸中期の浮世絵師・鈴木春信になぞらえて「昭和の春信」と称され、竹久夢二や鏑木清方とともに人気を博しましたが、昭和15年54歳で急逝しました。

このたび、京都・清水三年坂美術館コレクションから、肉筆画、版画、挿絵や舞台装置の原画、装丁本など、約300点を紹介します。再評価の動きが高まりつつある今、初公開を多数含む作品を通して、まだ知られざる雪岱美人の世界をご覧いただきたいと思います。

※本展覧会会期中、当館所蔵作品の展示はありません

入 館 料 一般・大学生1,000円 小・中・高校生500円
※毎週土曜日は小中学生無料
※15名以上の団体は各2割引
開館時間 10:00~17:00(入館の受付は16:30まで)
休 館 日 木曜休館
主  催 佐野美術館、三島市、三島市教育委員会、静岡新聞社・静岡放送
後  援 静岡県教育委員会
助  成 三島信用金庫、医療法人社団清風会 芹沢病院、沼津しらゆり、株式会社東静衣料
協  賛 伊豆箱根鉄道株式会社
協  力 清水三年坂美術館

展示会構成

序章 肉筆画 ― 「阿修羅王に似た女」を求めて

「阿修羅王は、こわい顔ぢやなくて、今生きてゐるもの、また過去に生きてゐた、世界中のどの女よりも美しく好ましい姿であるのです。」
―「阿修羅王に似た女」『オール読み物』昭和8年1月

雪岱は仏像を好み、とくに興福寺の阿修羅像に理想の女性を重ねていた。
東京美術学校(現東京藝術大学)に在学中のある日、下宿していた根岸の路地から、「阿修羅王」に似た女が向かってきた。彼女はにわか拵えの屋外舞台に立った舞妓で、その姿は月の光にゆらめいて、夢のようだった。
その後、二度と出会うことはなかったが、作品のなかでそれを求め続けた。晩年、画友・鏑木清方から肉筆画をもっと描いたら、と勧められた。多忙を極めていたが、それでも合間をぬって絵筆をとった。
それは雪岱にとって、究極の「阿修羅王」を追求する得難いときだった。

第一章 挿絵原画 ― 「個性なき女性」を描いて

「私の描く人物には個性がありません。個性のない人物、これが私の絵の特徴で、同時に私の最も非難される点です。しかし私としては個性を描出することには興味が持てないのです。」
―「挿絵のモデル 個性無き女性を描いて」『ホームライフ』昭和10年9月

雪岱の挿絵が最も魅力を発揮したのは、細くたおやかな墨線で、柳腰に目元も涼しい粋な江戸の女を描いたときだった。その作風は江戸中期の浮世絵師、鈴木春信も絵にした「おせん」で確立し、雪岱は「昭和の春信」と称えられた。
新聞や雑誌連載の頁は、モノクロ印刷が多い。そのなかでいかに話の核となる場面を選び、読み手の気分を盛り上げるか、雪岱はそれを鋭敏にとらえた。目をわずかにつり上げて乙女が夜叉に変貌する瞬間を表し、背景を墨で塗り込めて不安な心情を黒の闇に包みこんだ。雪岱は面相筆一本で、「個性なき」人物たちの心の奥を端的に描出した。

第二章 挿絵・装丁本 ― 「鏡花本」から始まって

「先生の本が出る時には、大抵その装幀や口絵を賜ったものでした。総じて泉先生の作物を絵にすることは非常に困難で、あの幽玄な風格を表すのは全く至難な業です。」
―「教養のある金澤の樹木」『演劇画報』昭和8年9月

雪岱の本格的な画業は、泉鏡花の書き下ろし本『日本橋』の装幀から始まった。美術学校の生徒だった21歳のときに出会ってから、7年後のことだった。そして鏡花から「雪岱」という号を授けられた。  
以後、鏡花の著作本のほとんどを雪岱が手掛けた。鏡花は装幀にも作品の世界観を体現することを求めた。雪岱はその意を汲み取り、鏡花の美文が紡ぎ出す幻想的で妖気に満ちた物語を気品高く表現した。 
雪岱は鏡花や出版社を通じて、多くの文学者や研究家、画家と交わった。彼らもまた、著作本を雪岱に装幀してもらうことを誉れとした。透徹した感性を必要とする雪岱の装幀本を凌駕することは、もはや不可能といわれている。

第三章 木版画 ― 花のような「麗人」に出会って

「色の白い姿のよいこの人がお納戸色へ花菖蒲を銀鼠で出した単物に、濃紫に水浅黄で花菱をぬいた帯で急いで来る姿は実に美しいと思ひました。」
―「初夏の女性美」『福岡日々新聞』昭和9年5月

木版画は、雪岱の生前に制作されたものが大変少ない。むしろ昭和15年(1940)の歿後に版が重ねられた作品のほうが多い。それは、雪岱の作品を愛する人々が、戦時中の混乱から作品が失われることを惜しみ、広く頒布されることを願ったからであった。そして伝統の浮世絵版画の技を駆使して、雪岱の作風を生かすべく、精緻にして淡雅な趣に刷り上げられた。
雪岱は作品制作において、その季節にふさわしい配色や着物、小物に気を配った。木版画からも、色彩や季節感に対する繊細な感覚がいかんなく表現されている。

第四章 舞台装置画 ― 「作品の気分」を生かして

「由来舞台の成功した装置といふのは、装置が舞台に隠れて了ふのが最上のものかと思ひます。」
―「舞台装置家の立場から」『時事新報』昭和3年3月

雪岱が舞台の仕事を始めたのは、38歳のときであった。すでに装幀家、挿絵家として活躍していたが、その高い評価は、舞台の世界においても注目されるところとなった。
雪岱は舞台装置のみならず、大道具や小道具、役者の衣装や鬘まで手掛けることもあった。どんな場合でも細やかな配慮と穏やかな態度で、大勢の人々をまとめ上げた。そして画家らしく、役者の姿が美しく映えるよう、舞台全体の配色にも気を配った。
雪岱の舞台装置は、これまでの定型化した舞台を「日本画を見るような」舞台へと大きく変えた。